あれから10年って、本当に早いですね…
10年経っても、ふるさとに帰れない方々がたくさんいらっしゃることに、震災と原発事故の傷の深さを感じます。
亡くなった方も、悲しみを抱えた遺族の方も、そしてこの震災関連のニュースを見るたびに心が痛む私たちも、すべての魂が癒されますように…

上の絵は、私の大好きな影絵作家・藤城清治さんの「南三陸町防災対策庁舎」です。
ヒーラーの観点から言うと、この絵の千羽鶴が光に乗って帰って行くように、亡くなった方たちの魂も、この世界へのよほどの未練や執着を残した方でなければ、もう一つの光の世界へと戻って行かれたんだと思います。恐らく、次の人生への準備をされているか、残された家族の守護役として見守っておられるか…どちらにしても、身体の制限も無くて美しい場所にいらっしゃるんじゃないでしょうか。
けれど、残された遺族の方達の記事を読んだりテレビの報道を見たりしていると、本当に切なくて悲しいですよね。皆さん、いろんな思いを抱えながらこの10年を生きてこられたんだなあ…と。
私は阪神大震災で被災した時、「日本に住んでいる限り、どこで暮らしていても地震に遭う可能性はあるんだな」と感じました。それまでは、ずっと関東が危ないと言われていたからです。
誰しも地震や他の災害に遭う可能性はあって、自然が起こすことには逆らえない、でも、東日本大震災のような悲しみややり切れなさがずっと続くような事にならない為にはどうすればいいのかなと、一人一人が自分の頭で考えることが必要かなと思います。
私がいざという時に必要だと思うのは、やはり水と食料の備蓄かなと。
阪神大震災の時は、幸いにも自宅のあるエリアは震源地から離れていたので、電気もガスも早く復旧したんです。でも、水道管が破裂したらしく水がなかなか出なくて、母が水の確保に奔走していたのを覚えています。災害を想定した備蓄なんてしていなかったので、水の有難みをひしひしと感じました。水が無いとトイレも流せないので、お風呂の水は出来るだけ溜めておいた方がいいことも、教訓として学びました。
そして、もう一つ必要なのは、自分の直感に従って動くこと。
東日本大震災の後、とっさの判断が生死を分けたという報道がたくさんありましたが、刻々と状況が変わる状態では頭で考えている時間なんてないんですよね。生徒を校庭で待機させていた学校の用務員さんが海を見て「これはヤバイ」と直感し、高台に逃げるように校長に訴え、結果先生も生徒たちも全員無事だった事例もあったりして、まさに生死の境目だったんですね。
関東に住んでいたお友達が震災後に西日本へ引っ越したことも、感慨深く思い出します。あまりにも急だったので「どうしたの?」と尋ねると「空気が金属の嫌な感じがして暮らせない」との答えが返ってきたんです。恐らく、その当時は関東も放射線量が高かったので、放射能を敏感に感じ取ったんでしょうね。
放射能とは違うのですが、知り合いが、黄砂が吹いたときにやはり「金属のチリチリした感じがする」と言っていたので、関東の彼女も異変が感覚的に感じられたんだと思います。そして、アレルギー体質というのもあって早々と引越す決断をした彼女を、私は本当にすごいなと思ったのを覚えています。もし、そこで思考であれこれ考えて動けなかったら、もしかすると彼女の体質だったら何らかの病気になっていたかもしれない。自分の身を守るために自分の直感に従って動いた彼女は移住地で仕事も見つかり、元気にしているようです。
緊急の時は、とにかく自分の直感で動く。そのためには、やはり日頃が大切で、思考を介さずに直感で動いてみる経験を積むことかなと。ふと心に浮かんだ場所に行ってみるとか、ふとある人を思い出したら連絡してみるとか。そして実際に行ってみたり会ってみると、「あ、こういう意味だったんだ」と腑に落ちることが多いように思います。
その積み重ねが、大きな人生の選択をする時にも重要な役割を果たしてくれる。私の人生を振り返っても、そんな風に思います。